歌川広重(魚づくし)の略歴 |
1797(寛政9) |
江戸八代洲河岸(現在丸の内馬場先門)の定火消の同心家に生まれる。本名 安藤徳兵衛(幼名=徳太郎 後重右衛門名乗りさらに改名徳兵衛) |
1809(文化6) |
父と母を相次いで亡くし、家業の火消職を継ぐ。 |
1811(文化8) |
幼少の頃より絵を描くのが好きであったため、絵師初代歌川豊国の門を叩くが弟子が多すぎるとのことで入門を断られ、歌川豊広の門下となる。 |
1812(文化9) |
翌年には師匠の一字「広」に俗名の一字「重」を加えた「広重」の画号を与えられる。 |
1818(文政1) |
斎号を一遊斎とし、役者絵・武者絵を描く。 |
1831(天保2)頃 |
斎号を一幽斎と改め、10枚シリーズの「東都名所」を出版、風景画に開眼したといわれる。 |
1832(天保3) |
斎号を一立斎と改め、秋に東海道を実際に京に上る。 |
1833(天保4) |
「東海道五十三次」を刊行する。 |
1834(天保5) |
「東海道五十三次」を完成し、一躍風景版画家としての名声を得る。 |
1835(天保6) |
暮未の木版出版界の大御所竹内保永堂が渓斎英泉を絵師として「木曽街道六十九次」の連作を企画、英泉は24枚を描いたが脱落し、広重が後を受け数年がかりで完成させた。 |
1857(安政4)〜1858(同5) |
全120図の大作「名所江戸百景」を制作。 |
1858(安政5) |
9月6日江戸で流行したコレラに罹り没した。 享年62歳。 |