||| 歌川広重(魚づくし) |||

 江戸八代洲河岸に住んだ幕府の定火消同心の安藤源右衛門の子として生れる。13歳にして両親に先立たれ家職を継いだが、文化8(1811)年頃、歌川豊広(1773ー1829)に入門。文政元(1818)年頃から、広重を名乗り作品を発表した。初期には、当時流行の美人画や役者絵を中心に描いたが、天保2(1831)年頃、「東都名所」を発表し、風景画へ進出、作品に漂う切々たる抒情、寂廖感にじむ旅愁は、幕末、喧燥期の人々の心を和ませた。
 広重といえば、「東海道五拾三次之内」が、あまりにも有名だが、画賛と絵が見事に調和した花鳥版画、四条派に南画や狩野派の手法も加えた気品高い肉筆風景画の分野にも独自の画境を開いた。
ひらめ・めばるに桜
作者:歌川広重(魚づくし)
技法:手摺木版画
用紙:越前生漉奉書
画寸法:25.5×36.0cm
額寸法:41.5×53.0cm
歌川広重(魚づくし)の略歴
1797(寛政9) 江戸八代洲河岸(現在丸の内馬場先門)の定火消の同心家に生まれる。本名 安藤徳兵衛(幼名=徳太郎 後重右衛門名乗りさらに改名徳兵衛)
1809(文化6) 父と母を相次いで亡くし、家業の火消職を継ぐ。
1811(文化8) 幼少の頃より絵を描くのが好きであったため、絵師初代歌川豊国の門を叩くが弟子が多すぎるとのことで入門を断られ、歌川豊広の門下となる。
1812(文化9) 翌年には師匠の一字「広」に俗名の一字「重」を加えた「広重」の画号を与えられる。
1818(文政1) 斎号を一遊斎とし、役者絵・武者絵を描く。
1831(天保2)頃 斎号を一幽斎と改め、10枚シリーズの「東都名所」を出版、風景画に開眼したといわれる。
1832(天保3) 斎号を一立斎と改め、秋に東海道を実際に京に上る。
1833(天保4) 「東海道五十三次」を刊行する。
1834(天保5) 「東海道五十三次」を完成し、一躍風景版画家としての名声を得る。
1835(天保6) 暮未の木版出版界の大御所竹内保永堂が渓斎英泉を絵師として「木曽街道六十九次」の連作を企画、英泉は24枚を描いたが脱落し、広重が後を受け数年がかりで完成させた。
1857(安政4)〜1858(同5) 全120図の大作「名所江戸百景」を制作。
1858(安政5) 9月6日江戸で流行したコレラに罹り没した。 享年62歳。
■購入先/参考資料:伊藤忠ギャラリー